高校中退ニートがDTMに目覚めた話

11eyes(ゲーム)の聖地で佇む筆者。撮影:ねこむろ

こんにちは。主にボカロ曲を書いている御崎七と申します。

「主にボカロ曲を書いている」と一言で言ったものの、そこに至るまでには本当にいろいろな紆余曲折がありました。

今回は、そんな自分の音楽との出会いや生い立ち、それにまつわる色々な事件、人との出会いなどを書くことで、皆さんに何かが伝われば良いと思いエディタを立ち上げた次第です。

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…………

勉強は大嫌いだ。塾は最後の30分だけ出ればいい方。

話は10年前まで遡る。

当時小学6年生だった俺は、山崎まさよしに憧れて、ヤマハの3万円くらいのアコースティックギターを買った。

当時は理論などは全く分からず、コード譜を見て頑張ってバッキングを弾くくらいで終わりだった。ほとんど衝動買いに近い買い物で、すぐに飽きて、ギターは押し入れの中にずっと眠り続けることになる。

……後に、俺の人生に大きな変革をもたらすことも知らずに。

時は過ぎて中学時代。ここで「好きな女の子が出来たのでギターを猛特訓した」とでも言えれば後々の人生に彩りをそえることができるのだが、そんな話はない。

現実の俺は、高校受験のために塾に通い詰める生活を送っていた。

しかしそれは決して上手く行っていたものではなかった。

遅刻やサボりの常連である。2時間の授業の中で、よくて最後の30分、酷い時は最後の10分くらいしか行かないことが多かった。思えば、この時点で俺の未来は決まっていたような気がする。そう、俺は「勉強」というものが大嫌いだったのだ。

だが、大嫌いには大嫌いなりの勉強法がある。

結果的にはそこそこの高校に合格し、その中でも上位の大学の附属高校を選んだ。名前を聞けば誰もが納得する学校なので、これなら文句はないだろう。ちなみに、選んだ理由は大学進学が楽そうだったから。

しかし、この選択は、後に分かるのだが大失敗であった。

大学進学どころじゃなかった。

高校生活が始まり、授業を受け始めると、「勉強することの難しさ」をはっきりと実感しはじめた。

何しろ大学の附属校なのだから、そう簡単には単位を取らせまいとして難易度設定をしてくるのだ。この時点で、受験生時代に実感した「勉強が大嫌い」という点との相性は最悪だった。

そして、俺は、誰かに何かを言われることもなく、誰にも助けられることもなく、いとも簡単に留年した。

2回目の1年生。

この年も俺の勉強ができない病気は相変わらずそこにいて、授業もまともに出られなくなっていた。勉強をしなくてはいけないのと、授業を受けなくてはいけないストレスで精神を病んでいった。

別に日本の教育が……といった批判をするつもりはまったくない。自分は根本的に「勉強」が苦手な病気のようなものをもっており、これは完全に個人の事情だ。

しかし、高校といえばクラスの一員として、色々な社会的な役割を確立していく時期である。もちろん進学校にいれば、学力だってその役割に影響する。

だが自分はどうか。勉強もできないし、一員だったクラスからは留年で置いていかれた。こんな人間に「社会的な役割」はあるのか。

孤独感と日々のストレスから逃げるように、家に帰ると深夜4時くらいまでずっとゲームをして過ごした。

翌日はもちろん寝不足で、授業に出ても寝てることがほとんどだった。完全に悪循環だった。

音楽との出会い、そして起こった大事件。

そんな鬱屈した高校時代を送っていた俺だが、ひとつ収穫もあった。

何故思いついたのかは分からないが、ふと、押し入れに眠っていたギターの事を思い出して、気分転換にギター教室に通うことにしたのである。

通ったのは高田馬場のジャズギター教室。そこで俺は、音楽理論というものを知り、トニック、サブドミナント、ドミナント、6th、7th、9th、sus4といった物があることを理解した。

コード譜にあるコードは無秩序に並んでいるわけではなく、実に綿密なコードワークの下で成り立っていたのだ。まさに目から鱗が落ちたような感動を味わったのを覚えている。

ギター教室に通うにつれ、演奏がそこそこできるようになった。どうやら音楽は自分にも少しは向いていたらしい。1年くらい経ち、盗めるものは大体盗んだと思えた頃に教室をやめることにした。

だが、現実は厳しい。ある日、俺の高校生活最大の事件が起こった。

語学の授業の時、俺は例によってうつらうつらと居眠りをしていた。特にいつもと変わったものではないが、そのときは違ったのだ。

「お前、ナメてんじゃねえぞ!!!!」

いきなり教室内に怒号が響き渡った。

しんと静まり返った教室に、すぐに机が倒される轟音が響いた。

やがて教師が、机を薙ぎ倒しながら俺の席までやってきた。そして、思い切り俺の胸ぐらを掴み上げて唾を飛ばしながら言った。

「今すぐ教室を出て行け。居眠りする奴は二度と来るな」。

……そうか。まぁ、そうだよな。

俺は何も言わずに教室を出ると、教室の扉を一瞥し、その後の授業のことなど気にも留めず、そのまま家に帰った。

「もうダメだな」

そう思った俺は、高校を中退した。

通信制高校は”作業”だ。

そうはいったものの、高校卒業資格だけは取っておかないと現代社会ではまともに生活できないことはわかる。その程度の社会性はまだ俺にも残っていたらしい。

そこで俺は、通信制高校に通うことにした。

通信制高校というのは大体遠方に位置しており、定期的に送られてくる課題をこなすことで単位を取得できる学校のことだ。

手続きを済ませて、俺は失った単位を取り戻す「作業」に忙殺された。通信制高校の教材はドリルのようなもので、プリントが1年次毎に数百枚くらい渡されるのでそれを全部解いて終わり、なのだ。

幸いにも前の高校時代の1年次の単位は幾つか残っていたので、俺は残り2年間分の教材を4週間くらいで終わらせて、晴れて高校卒業資格を手に入れた。文字通り作業だった。

……ところで、結局、俺は「勉強が嫌い」だったのだろうか?

確かに留年した高校の方が授業のレベルは高かった。だが、勉強がそこまで大嫌いな俺が、通信制で、しかも一年分課題をどっさり渡されたにもかかわらず、速攻で課題を終わらせて卒業できるものだろうか。

そこまで考えた時、今の俺だったら確実にわかることがある。

「勉強が嫌いなわけじゃない。学校が嫌いなんだ」と。

もちろん、当時はそんなことを考えることもなく、ただ日々のストレスから逃げ続けていただけだったが、今思い返せばそういうことだったのだろう。

DTMをすればプロ級の曲が作れるらしい。

さて、高校を卒業した俺だが、すぐに就職する気はあまりなかった。大学進学する気もあまりない。要するにニートだ。

ニートは暇だ。暇なので、とりあえずTwitterで昔から交流のあった人と会うことにした。

それがTEAM EX NOTES代表の神乃木リュウイチ氏である。

当時の神乃木氏は今よりも老けて見えており、たいそう大人びて見えた印象がある。

待ち合わせは新宿のエクセシオールカフェ。

ちなみに覚えておいてほしいのだが、新宿には「エクセシオールカフェ」と「エクセシオールカフェ」の二つがある。全国的に展開しているチェーンは「エクセシオール」の方である。

なぜそんな話をするかというと、神乃木氏との待ち合わせでその二つを盛大に間違えるという珍事が発生したからだ。読者の皆様も注意していただきたい。……いや、普通間違えないか。

神乃木氏とはいろいろな話をした。学校の話やアルバイトの話の中で、ひとつ興味深い話を聞けた。それは「DTM」というものだ。パソコンで曲を作ることらしい。

氏曰く、「DTMなら楽器が弾けなくてもプロ級の曲が作れる」らしく、実際に市場で流通している曲は今ではかなりの数がDTMを利用して作られているとのことだ。

神乃木
俺そんなこと言ったっけ……

パソコンは昔からそれなりに触っていたので、俺がDTMに興味をもつのはある程度必然だった。神乃木氏や同じくTEAM EX NOTES所属のねこむろ氏を真似て音源を幾つか買ったりした。と言っても曲を作るわけでもなく、シンセで軽く遊ぶ程度だ。

ちなみに最初に苦労したのは「音が出ないこと」だ。パソコンはそれなりに使っていたと自負する俺でも結構混乱したので、DTMというのはかなり初心者泣かせなものだろう。

いずれにしても、ニートとも浪人生ともいえるこの時期は、かなり気楽な時期だったように思える。

ニート、会社員になる。そしてまたニートに戻る。

話が逸れるが、また人生の転機が訪れた。

気まぐれで行った就活イベントで就職が決まったのだ。

六本木にあるIT企業。名前は伏せるが、またとないチャンスだと感じた。

パソコンはそれなりに使える。プログラミング自体は小学3年生くらいからの趣味だったので、プログラミングで生計を立てるのも悪くないかな、と思った。

しかしこれが、はっきり言って大失敗に終わったのである。

まず、俺が入社時に提示していた自分のスキルセットと、会社内で実際に使っている技術が完全にミスマッチ。正直ガン萎えした。

さすがに特定されたくないので詳しくは書けないが、「インド行きの飛行機に乗ったらインドネシア行きだった」ぐらいの感覚といえば、すこしは伝わるだろうか。

これは正直言って俺のせいじゃないと声を大にして言いたい。普通は面接の時にその辺は深く確認しておくはずなのに。

それから、とある先輩社員との関係が険悪になった。多分お互いに一番嫌いなタイプの人間同士だったんだと思う。社員同士の関係が密な企業風土をもっている会社だけに、これも致命的だった。

そんなこんなで、俺はその会社を1ヶ月で辞めた。全く後悔はしていない。

曲作りって面白いんだなぁ。

短い社会人生活を終えて再びニートになった俺は、またDTMに戻ることにした。

そこでふと疑問に思う。「なぜDTMに戻ることになったのか?」 多分だけど、それはやっぱり、自分は「趣味」で生きていきたい、と強く思ったからだと思う。

いままではシンセ弄りしかしていなかった俺だが、ちゃんとした曲を作れるようになりたい。

まずは曲を完成させて、どこかにアップロードするべきだ。そう思った俺は、2016年の5月くらいからニコニコ動画にボカロ曲を投稿しはじめた。

拙い作品なのであまり評価はされないが、再生数が10でも増えると嬉しい。プロ級の曲になるのは恐らく当分先だが、少なくとも俺は「DTMは楽しい」と感じている。

勉強したいことだってたくさんある。色々なジャンルを聴いて、色々なジャンルを作って、「俺はこんな曲も作れるぞー!」というのをアピールしていきたい。

憧れの作曲家とか、「いいな」と思える曲とか、それを真似していきたいという気持ちもある。

今最も尊敬している作曲家は神前暁氏。手掛けているアニソンはとてもキャッチーで細部まで作り込まれており大変素晴らしいの一言に尽きる。また、「涼宮ハルヒ」シリーズの劇伴で137曲も曲を作ったのはもはや伝説と言ってもいいだろう。この劇伴集は、今年の7月に発売された5枚組CD『涼宮ハルヒの完奏』で聴くことが出来るので是非聴いてみてほしい。

ちなみに今取り組んでいる課題は、パーカスとサンプルループの使い込み、かっこいいギターソロの研究とミキシングあたり。とにかく既存曲をどんどん聴き込むことが大事らしいので、そこは日々勉強していきたいと思う。

……長くなったが、そんなこんなで、今はDTMをやりつつたまにプログラミングをやる感じで落ち着いている。今後はDTMの活動の幅をどんどん広げていきたい、と思っている。

 


本記事は以上です。俺という一人の人間の人生として、参考になる点があったり面白いと感じてもらえたりすれば幸いです。ありがとうございました。

最後に、自分の作った曲を載せておきます。聴いてみてね!